10月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年閏8月9日(1862.10.2)
【京】孝明天皇、久光に御剣下賜。久光、公武合体意見書を議伝両役に/
朝廷、幕府に責問書/

■島津久光
【京】文久2年閏8月9日、朝廷は帰京した島津久光を召しだして、剣を下賜し、勅使補佐の功を賞しました。

天皇は御簾内でこの様子を見ていたそうです。これは、無位無官の陪臣にとってこの上ない特恩なのだそうです。

【京】同日、久光は公武合体の意見書を議奏・伝奏に提出しました。その大意は

幕府はすでに一橋・越前を登用し、幕政を改革せよという詔を遵奉したので、朝議は確乎として同様されるべきではない。また、匹夫の激論は一切御採用にならないように。じっくりと関東(幕府)の処置を観察されるべきである。諸国の大名など国事周旋を願う者へ内命を下されているようだが、それでは幕府を疑うようにみえ、この為に公武合体が損なわれることがないともいえない。既に内命を下された諸藩へは、改めて、今は上京には及ばず、幕府が新政を実行せず天下の人心が一致しないときはすぎに上京し、尽力するようにとの御沙汰を授けられるべきである。ただし、長州土佐両藩は従前のままにて然るべきである>(『徳川慶喜公伝』口語訳ヒロ →もとは『島津久光公実記』)

というものでした。

<ヒロ>
久光が江戸にいる間、京都の情勢は一変し、長州藩を中心とする尊攘急進派の勢力が伸張していました。久光の目指す公武合体にとって情勢の変化は大きなマイナスでした。しかも、朝廷は諸藩(肥後藩、筑前藩、土佐藩、佐賀藩、備前藩、芸州藩、津藩、阿波藩、仙台藩、久留米藩の10藩)に、薩長に対してと同様に国事周旋の内命を下していました。久光にとって、これはかなり不快だったのではないでしょうか。

なお、『京都守護職始末』には、文久2年閏8月、久光に京都の守護を任せようという動きが朝廷にあったと記されています。同書によれば、「さきに勅使大原重徳卿が西に帰るや、島津三郎もそれに従って西上し、その途中、武州の生麦駅で、英国人が儀従を犯したかどでこれを斬首したが(世にこれを生麦の変とよぶ)、入京するに及んで、諸公卿はその疎暴を論難するどころでなく、かえって勇敢たのむに足るとなし、殊に先に伏見において浮浪の徒の騒擾をしずめ、今また、勅使にしたがって攘夷督促の綸命をくだし、幕府をしてこれを奉戴させた、その功大なりというわけで、長く彼を輦下にとどめて守護の任にあたらせようとした」そうです。しかし、これは、長州・土佐の反対で実現しなかったとも記されています。久光は、同月23日に退京しています。ところで、久光が京都にいる間、容保が新設の守護職を拝任したことが京都に伝わっており、 幕府が武力制圧を企んでいるのではないかと不安をもった朝廷は、19日に守護職の職掌について幕府に問い合わせています(こちら)。この時期、『京都守護職始末』にあるように、久光を京都の守護にあたらせようという動きが朝廷にあったとしたら、尊攘急進派だけでなく、幕府/会津藩を掣肘する存在として期待されていたのかも・・・。

参考>『徳川慶喜公伝』、『維新史』、『島津久光と明治維新』2003.10.2
関連:■テーマ別「勅使大原重徳東下」 「公武合体派勢力の後退と島津久光の退京」薩摩藩日誌文久2年

【京】文久2年閏8月9日、朝廷は、幕府が失政を謝して新政実行を約した上書について責問書を送りました。

5日に長州藩が提出した意見書を受けての反問でした。

参考:『徳川慶喜公伝』2003.10.2
関連:◆文久2年8月7日−幕府、朝廷に対して従来の失政を謝し、新政を行うことを奏する。 閏8月5日−【京】長州藩主毛利敬親、幕府の上書を非難。

文久2年閏8月9日、清河八郎と同志の村上俊五郎は水戸に入り、ました。

<ヒロ>
寺田屋事件後、清河は水戸浪士を引き出して横浜攘夷を実現するための東下を決めて6月1日に京都を出立しました(こちら)。8月24日に江戸に着き、山岡鉄舟・松岡万ら虎尾の会同志と会うと、27日には江戸を出立していました。


(その後、清河は計画を横浜攘夷から大赦運動にシフトし、同月20日に水戸を発ちますが、10月11日には再び水戸に戻り、住谷らと往復し、12月に自身が大赦されるまで水戸に滞在した模様です。あまり取上げられない気がするのですが、清河八郎と水戸激派はつながりが深いのです。そして、実は清河と面識のある水戸藩激派は芹沢鴨とも接点があるのです(芹沢鴨の事件簿文久3年@衛士館)←覚書に整理したいと思っています。

参考>『清河八郎遺著』、『史談会速記録』、『明治維新人物事典』等(2003.10.2)
関連:■「今日」◇文久2年4月13日−清河、一挙を前に本間精一郎・安積五郎・藤本鉄石らと薩摩藩大坂屋敷を退去。京都へ/ ◇4月23日−寺田屋事件 ◇5月28日-清河八郎、薩長藩士を激励するため、書を浦靱負に。 ◇5月29日−清河、桂小五郎の面会を求める ◇6月1日-清河八郎、退京途上伏見の薩摩屋敷に立寄り、冷笑されるが、藩士某から活動資金200両を贈られる。■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」◆清河/浪士組年表 文久2年@衛士館

「いろはに幕末水戸藩」「水戸藩かけあし事件簿」

そのほか、HP内検索で清河八郎を検索してみてください^^(現在132ファイルあります)

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